(※各節の副題は読んでも読まなくても大丈夫です。また、もしお読みになる場合はどちらが読んでも構いません。相談して決めてください。ちなみに、「×」の読み方も特に決めてませんので、ご自由にお読みください)
その日の夜遅く、最寄り駅の改札で偶然、僕はあの人に再会した。
「ウミさんこそ、こんなに遅くまで、お仕事ですか?」
「別にこれくらい普通だって。これでもウチの会社、割りとホワイトなんだよー? あ、そうだ。それよりも、家近くなんだし、せっかくだったら一緒に帰らない?」
「ふふ、それにしても、キミももう高校生か~。前に会ったのって、まだ中学生だったよね。早いなぁ、ほんとちょっと前までこんなちっちゃかったのに」
「……ね、覚えてる? キミが小学校上がりたての頃だったかな。近所の犬が怖くて帰れない~って公園で泣いてたキミを、私が手つないで一緒に帰ってあげてさ」
「そ、そんな恥ずかしいこと、覚えてないです……!」
「えー、うそー? その反応、絶対覚えてるでしょー」
「まあ、でも、あれがちょうど十年くらい前か。私もまだ高校生だったし、若かったなー」
「……ウミさんは、昔からずっと変わらないですよね」
「だって、昔から……その、きれいだし、スタイルもいいし」
「ふふ、そっか。キミもいつまでも子どもじゃない、か……」
「え? えっと、土曜日は部活があるんで、日曜日なら……」
「じゃあさ、よかったら一緒に、ご飯でも食べに行こうよ」
ウミさんは、ウチの近所に住んでいるお姉さんで、親同士も昔から仲が良いらしく、僕も小学生の頃は彼女によく遊んでもらった。
でも、彼女が大学を卒業して、社会人になってからは、あまり会う機会もなくなっていた。
そんな時、こうして偶然再会してから、僕の毎日は少しずつ変わっていった。
度々、時間をつくっては、ご飯を食べにいったり、買い物に付き合ったりもした。
あの人にとって、きっと僕は、年の離れた弟くらいにしか思われてなかっただろう。
それでも僕は、あきらめなかった。あの人と同じ場所に立てば、対等に僕を見てくれるはずだと信じていた。
「うん、おいしい! こんなとこ、一人じゃ来ないから」
「い、いたら、こんな風にウミさんと出かけたりしてませんてば」
「ふふ、そうー? でも、リクくん絶対モテるでしょー?」
「そんなことないです! それよりも、ウミさんは、いないの……? その、付き合ってる人……」
「うん。まあ、年が年だし、結婚前提のお付き合いみたいな?」
「一応ね。て言っても、この先どうなるかわからないけど」
「あ、そうそう。それでさ、その人ね、めっちゃかっこいいんだよー。メガネ男子でさー、スタイル良くてスーツもビシッと決まっちゃうし」
「それに、香水とかもいいやつ付けちゃってさー、さすがにちょっとずるいよね」
「えー、どうかなぁ~。ムスク系の香りとか、キミにはまだ早いんじゃない? 今はまだシトラス系のデオドラントでじゅーぶん、じゅーぶん!」
「あはは、してないしてない! いいじゃん、青春ぽくて。私は好きだよ?」
「……でも、ウミさんは、そういう、あからさまなイケメンが良いんでしょ」
「そうじゃないよ、その人がたまたまそうだっただけ。見た目だけだったらまず選んでないからね。そんなあからさまなイケメンなんか、胡散臭いでしょ」
――冗談ぽくくすくすと笑うウミに、リクは口をとがらせる。
「んー、なんだろう、フィーリング? たまたま会って、たまたま気が合ったから、かな」
「じゃ、じゃあ……その人は、いくつくらいの人なの……?」
「……それって、僕から見たウミさんと同じってこと……?」
「あー、そっか。そう言われてみれば、リクくんと私も、それくらい離れてるんだね」
「これでも私ね、頑張ってるんだよ。彼から見たら、私なんてまだまだ子どもだからさ。彼の隣に立って、一緒に歩けるように。彼の足手まといにならないようにって」
「そ、そんな……ウミさんは、だって、もう一人前の大人だし……!」
「それはー……私がリクくんよりも、ちょっとだけ先に生まれたから、そう見えるだけだよ」
もしも、僕がもっと早く生まれていて、もっと早く貴女と出会っていたら。
ウミさん――僕は、貴女の隣に立っていられたんですか?
言いかけたその言葉を、僕はミルクティーと一緒に飲み込んだ。
その時、僕は初めて知った。彼女は、僕が思うよりも先を走っていた。
僕が立とうとしている彼女の隣よりも、もっと先を目指していたんだ。
走って、走って、どれだけ走っても、僕は貴女に追いつけない。
僕がどれだけ追いかけても、貴女は同じ速さで離れていく。
僕が貴女の隣に立とうとしても、貴女はもっと先に行く。
僕は、貴女との距離を、どうしたら縮められるのだろう。
色づいた木々の葉が、吹き抜ける冷たい北風に舞う季節。
とある日曜日の昼下がり、唐突に、彼女からの通話が入った。
「今、時間ある? もしよかったら、会って話せないかな……ほら、家の近くの公園で……」
「ウミさん、もしかして外なの? 今すぐいきます!」
――しばらくして、リクが息を切らしながら、公園へと走ってくる。
「ううん、大丈夫。それよりも……ウミさん、疲れてる? もしかして、寝てないの……?」
「……ねえ、リクくん、まだ時間ある? ちょっと、座って話さない?」
まるで辺り一面、黄色の絨毯(じゅうたん)が敷かれたように、
数えきれないほどたくさんの、イチョウの葉が地面を覆う。
そんな公園のベンチに、僕とあの人は、肩を寄せ合いながら腰を下ろした。
――しばしの沈黙ののち、ウミがおもむろに口を開く。
「急にそんなこと言われたってさ、どうしろってのよね」
「そもそそもさ、勝手すぎない? こっちは何も聞かされてなくて、何の準備もしてないのに、いきなり付いて来てほしいなんてさ。私の生活はどうなるの? 家族とだって離れて暮らさないといけないし、友だちとだって会えなくなっちゃうんだよ? そんなの嫌に決まってるじゃん……」
「それに、いつまで経っても、私のこと子ども扱いするしさ。それなのに、ずっと俺を支えてほしいだなんて、虫が良すぎだろって思うじゃん。なんなのよほんと、自分勝手でさ……」
「ぼ、僕がいます! 僕が、貴女の傍にいますから……!」
そう言って彼女を抱きしめる僕の声は、僕の手は、慣れないことへの緊張と、嫌われてしまうかもしれない、拒絶されてしまうかもしれないという恐怖に、震えていた。
すると、彼女は僕の背中に腕を回し、きつく抱きしめ返してくれた。
「――あーあ、なんかすっかり日が落ちるのも早くなってきちゃったね」
「ありがとね、リクくん。なんだか、ちょっとすっきりした」
「あ。ねえ、チョコでも食べない? 私これ、最近カバンにいつも入れててさ。けっこう好きなんだ」
「チョコってね、身体を暖める効果があるんだって。雪山に登る時の必需品らしいよ?」
「あー、リクくんもしかして、ビターなやつ、嫌い?」
そうして僕の口の中で溶けたチョコレートは、甘くてほろ苦い、大人の味。そんな相反するものが混ざり合うことができるなんて、子供の僕には理解できるはずもなく。
隣にいる彼女の、その太陽のような温もりを、確かに感じているはずなのに、何故だか同時に、僕の心の中を、冷たい北風が吹き抜けた気がした。
結局、彼女は婚約者とよりを戻し、結婚を機に、外国で暮らすのだという。
一足先に日本を発った婚約者の許に向かうというあの人を、僕は、空港まで追いかけた。
――リクは空港のロビーでウミの姿を見つけ、駆け寄る。
「サボった。……もうテスト終わったし、どうせあとは春休み待つだけだし」
「もしも、僕がもう十年早く生まれていたら、もしも、あなたと十年早く知り合っていたら……僕はあなたの横に、立っていられたんですか?」
「あの時、急だったのにすぐ来てくれて、嬉しかったよ」
そう言って彼女は、カバンから板チョコを取り出して、その欠片を一つ、僕の口に入れ、そして――
――二人は互いの舌でチョコレートを溶かし合うようにキスをする。
――僕たちは、チョコを口に含みながら、くちづけを交わした。
それは、高校生の僕にとってあまりに官能的で刺激の強い、ファーストキスだった。
「僕の気持ちを知っていながら……ずるいよ、そんなの……」
「リクくん、私ね。キミの気持ちに気付いてた。キミの気持ちを知りながら、ご飯に誘ったり、一緒に遊んだりしてたの」
「私のこと、好いてくれてるんだなって、嬉しかった。その気持ちが嬉しくて、つい甘えちゃってたんだ。……自分に無理せず、気楽に寄り添える存在にさ」
「ごめんね、リクくん。大人になればなるほど、ずるくなる生き物なんだよ。人間って」
「リクくん、キミはきっと、もっともっと素敵な人になれるよ。それこそ、私なんかもったいないくらい」
「だからさ、私なんてもう忘れて? ……それと、もう私みたいな悪いお姉さんに、騙されちゃダメだぞ?」
そうして彼女は、バイバイと小さく手を振って、海の向こうへと旅立っていった。
その顔は、まるで憑き物が落ちたように、とても晴れやかだった。
最初はきっと、僕という重りから解放されたからなのだと思った。
でも、それは、ただの僕の思い上がりに過ぎなかっただろう。
彼女にとって、僕という存在など、重りにすらなっていなかった。
僕は最後まで、あの人と対等な位置にすら、立てていなかったのだ。
彼女の乗った飛行機を見送りながら、僕は日が暮れるまで、ただ泣き続けた。
彼女とはもうそれ以来、会っていない。今頃なにをしているのかも、わからない。だけれど、彼女とのささやかな思い出は、その後、いくつかの出会いと別れを経験してもなお、僕の心から、消えることはなかった。
どんよりとした寒空の下を、冷たい北風が吹き抜ける。