東宮(ひがしみや)大学に通う大学生、福内行雄。
繊細な心を持つ男である彼は、些細なことから想い人である平坂奈美への恋を諦めかけていた。
彼は「ヒロイン無き英雄譚」を掲げ、恋愛に対する未練を断ち切らんと息巻くが、手ごわい恋敵の登場によって心情はたやすく揺れ動く。(結局は未練たらたらなのである)
果たして、そんな彼の「ヒロイン無き英雄譚」の結末は、いかにーーー
登場人物
男性 二十歳 東宮大学三期生 背は高めで細身 目立つタイプではないが、親しい人には饒舌になる。若干ネガティブ
男性 二十歳 東宮大学三期生 中肉中背 毒舌家 成績は良くないが、悪知恵は働くタイプ。性根までは腐っていないらしい
女性 十九歳 東宮大学二期生 背は低くやや細身 東宮大学屈指の美少女だが、変わり者である。絵本作家を目指している
男性 二十一歳 東宮大学三期生 長身で細マッチョ
大富豪の息子で才色兼備の人気者。裏では人の弱みを握ってあくどいことをしている。気に入った女性には歯の浮くようなセリフを言いまくる
男性 年齢不詳(中年くらい)
飄々とした物腰で、どことなく胡散臭い
シナリオ
この世の中は間違っている! 俗世に蔓延る軽佻浮薄な連中は、飽きもせずにモテるモテないの二元論にうつつを抜かし、崇高な信念を見失っている。現実世界を見限りファンタジーの世界を覗いてみても、主人公が人助けにかこつけて美しいヒロインと組んず解れつな姿態を演じてめでたしめでたし、だ。ああ、なんて嘆かわしい。最早どこにも高潔な精神の持ち主などいないのか。そう諦めかけていた私だったが、ひとりの漢が手本となるべき生き様を示してくれた。その漢こそ、かの有名な英雄、桃太郎だ。彼は育ての親と故郷への恩返しのため、宝物を独占する鬼を討伐する旅に出た。その冒険にヒロインなどいない。彼はただ純粋な善意によって行動し、困難な目的を達成したのだ。彼こそまさに英雄と呼ぶに相応しい! 私もそんな桃太郎に習い、下心など欠片もない純粋な正義に殉じる漢でありたいと思う! よって今ここに、私はヒロイン無き英雄譚を生きると宣言するのである!
実に見事で珍妙な演説だ。こんな場末の食堂で、僕一人だけを聴衆にしておくのがもったいないくらいだねぇ
ふん。気が済むまでからかえばいいさ。崇高な信念とは、得てして不遇な扱いを受けるものだ
まあまあ。崇高な信念とやらを掲げるのは、目の前のカキフライ定食を平らげてからでも遅くはないでしょー? 早く食べないと、冷めちまうよ
しまった。俺としたことが、せっかくのごちそうを台無しにするところだった・・・むしゃむしゃ
それにしても、ヒロイン無き英雄譚とは、これまたへんてこな信念を標榜したものだねぇ。一体どうしてそんなものを拵えたのか・・・。ははーん。さては、平坂さんと何かあったのだね?
(詰まらせて)ンぐっ⁉ ごほっごほっ。ひ、平坂さんは何も関係ない!
そんなわけないでしょー? つい先週まで彼女とのランデブーにお熱を上げる軽佻浮薄な俗世の一員だった君が、いきなり恋愛否定派に鞍替えときたもんだ。彼女との関係に何かしらのインシデントが発生したということ以外、考えられる原因はないねぇ。まあ、君の奥手さを考えると、告白してフラれたって線はないか。大方、彼女の些細な挙動を過大に取って、勝手に自信喪失、自暴自棄ってところだろうさ
う、う、う、うるさい! お前に俺の気持ちが分かってたまるか!
うう・・・だって、彼女は俺に約束してくれたんだ。今描いている絵本が完成したら、真っ先にお見せしますって・・・。それなのに、いざ絵本が完成した途端、やっぱり見ないでくださいって・・・。あの時の彼女の俺を見る眼、あれは畑を食い荒らす害獣を見るような眼だった・・・。俺は彼女の独創的な世界を食い潰す獣に過ぎなかったんだー‼
ほう。被害妄想もここまで極まると見るべきものがある。君は思考回路そのものが実に珍妙に出来ているらしいねぇ。しかし、だ。君は本当にその程度のことで恋路を諦めてしまうつもりかい? 平坂さんの気を惹くために、児童文学を読み漁ったり絵の練習をしたり、愚にもつかない努力をあんなに重ねていたのに
僕は君の親友じゃあないか。親友なら、相手の弱みくらい握っておくさ
そう言うなよ。これでも僕は君と平坂さんの仲を応援しているんだよねぇ。だから、君がそうやってウダウダしている間に、彼女が他の男に取られでもしたら、あまり面白くないのだよ
そうさ。これは有り得ない話じゃないぞ。現に、君と僕には嬉しくない事態が、絶賛進行中なのだ。ほら、向こうの席を見たまえ。そーっとな
向こうの席? 何だ? オンボロ食堂には場違いな黒スーツが座っているな
外島公彦だと⁉ あの大富豪の息子で眉目秀麗・品行方正・成績優秀な大学一の人気者で、この世で最もいけ好かない男。その使用人が、我らが憩いの場であるこのオンボロ食堂で何をしているというのだ?
奴は平坂さんの情報を集めているのさ。彼女もこの食堂の常連だからねぇ。分かるかい? つまり外島は、平坂さんを己が恋人にせんと動いているのさ
平坂さんも我が校屈指の美少女。おまけに気立てが良くて清楚で慎ましやかな性格は、今時得難い魅力だろう。絵本作家志望というのも上品で好ましい。外島が手に入れたがるのも、うべなるかな、だ
それはいかん! あんな薄っぺらな男を、平坂さんに近寄らせてたまるか! 第一、使用人を使って情報を仕入れるなど、芯から人を好いている人間のやることではない! そのような卑劣漢に彼女を渡すわけにはいかん! 俺は断固闘うぞ!
そうは言っても君。平坂さんのために闘うということは、つい数分前に君自身が掲揚したヒロイン無き英雄譚とやらに矛盾するのでないかな?
ぐぬぬ・・・それは・・・。いいや、俺の態度に矛盾など無いとも。俺は平坂さんの幸せを心から願うからこそ、彼女が邪悪の手に落ちるのを阻止するのだ。これは利己的な下心ではなく、純粋な善意だ。俺は彼女をヒロインとしてではなく、独占すべからざるこの世の宝として、外島の不当な占領から守り抜くのだ。さながら、桃太郎のように。これこそ、ヒロイン無き英雄譚に生きる漢が進むべき道であろう!
やれやれ。崇高な信念と言う割に、ずいぶん自分に甘い裁量だねぇ。まあ、いいや。君がやる気になったなら、僕はそれで満足さ。さて、ここの会計だけど、君の払いで頼むよ。僕、今月は一文無しなんだよねぇ
あ、おい、こら待て! 俺だって一文とちょっとしかないぞ! おーい!
それで、さっきは勢いで外島と戦うと宣っていたけど、果たして具体的な勝算はあるのかい? 奴は、欲しいものは是が非でも手に入れる性分だと聞く。おまけにその手段は合法・非合法ともにバラエティに富んでいる。君の勝ち目はニアリーイコールゼロだと思うがねぇ
さらに悪いことに、お前が押し付けた会計のせいで先立つ物すら無くなってしまったではないか!
僕のせいにされては困るよ。君の財布が軽いのは、質量保存の法則と君の甲斐性の問題なのだから
そんなわけが・・・はあ、もういい。確かに、外島の牙城を崩すのは容易ではない。正面から挑んだところで、いや、恐らく正面に立つことすら現状では望み薄だ。せめて奴に付け入る隙の一つでもあれば・・・
そこの御仁よ。困りごとあらば、私に話してみる気はないかね?
なあに、名乗るほどの者ではない。さきの食堂の片隅で君の熱く珍妙な演説を聞いいて感銘を受けた一人さ。そんなことより、君は外島公彦を打ち破る一手を求めて思案に参っている。そうだろう?
え、いや、しかし・・・。見ず知らずの方にそのような・・・
何を迷っているので? せっかく縋るべき藁縄が目の前に現れたんだ。ここは厚意を無下にせず、ふんだんに頼りにすべきでは?
そちらの御仁の言う通りだ。君は桃太郎の如く大敵に立ち向かわんとする英雄だ。物事の機微には聡い方が良いと思うがね?
ウーム・・・どうも話が出来すぎな気もするのですが・・・分かりました。ぜひ、その一手をご教授ください
よろしい。いいかね? 外島は望月も欠けない完璧な人気者のようだが、その裏側は実に凶悪だ。奴は財力と権力を用いてあらゆる情報を収集し、それを種に悪辣な所業を重ねている。奴の犠牲になった人間は数知れないが、そういった醜聞は全てもみ消され、奴は潔白のまま日当たり良好な道を闊歩している。この一帯は奴の庭だ。逆らえる者はほとんどいない。だが、君のような無鉄砲者は別だ。その類稀な情熱あらば、奴に一泡吹かせられるかも知らん。奴の屋敷の執務室には、集められた情報をまとめた極秘ファイルがある。それを奪取すれば、数々の悪行の証拠として、奴を失墜させることができるだろう。無論、屋敷の警備は難攻不落だが、我々三人が力を合わせれば突破できないことはない。その証左として、ほれ、ここに屋敷の警備図を用意した
同じ質問を呈する勿れ。私は名乗るほどの者ではない。ただ、敵の弱点には犬のように鼻が利く。私の数少ない取柄の一つだ。他の取柄は料理の腕くらいだが、それでも供回りとして侍らせて損はなかろう。君は私を家来としてこき使ってくれれば良いのだ
さあて、本日は大変お日柄が良い。この警備図が示す通り、今日は人員交換で警備が手薄になる予定なのだ。搬入口Kから侵入してBE通路を進めば、メインホール脇を通って執務室に至る。この経路であれば、午後二時から二時半の間、警備はたったの一人だけだ。こんな好機は後にも先にも訪れまい。言いたいことが分かるかね? つまり、今より二時間後、君たちは外島邸への潜入作戦を遂行するということだ
そんなものを待っていたら、今世紀が終わってしまう。英雄の道を行くなら、えいやと思い切りよく死地へ飛び込む気概を見せてみなさい
ぐぬぬ・・・分かりましたよ! どうせ元より不利な戦。我が気概で戦況に希望が生まれるなら、この命、張って後悔はしないとも! おい、続木、行くぞ!
ようし、二人とも頑張りたまえよ。私はちと用事があるから、後から応援に行くとしよう。くれぐれも予習を怠らないように。君たちの武運を祈っているよ
ううん、今日はなんと良い天気なのでしょうか! 雲一つない青空に浮かぶお日様が、栄養満点な日光を惜しげなく私に注いでくれています。先ほどまで室内で読書尚友に没頭していた私でさえ、書を捨てて街に出たいという衝動に駆られるほどの日本晴れ。こんな日は、いつもの食堂で絶品料理を食して舌鼓と参りましょう。少し遅めのお昼ですが、先輩はいらっしゃるでしょうか? 先日の非礼をお詫びする機会を得られぬまま、もう一週間が過ぎてしまいました。こんな無礼者の私には、とうに愛想が尽きてしまわれているでしょうが、せめて誠心誠意の謝意を申し上げて、改めてお約束の絵本を読んでいただきたく思うのですが・・・。おや? 食堂の様子が妙ですね。日頃からやや閑散とした場所ではありますが、今日はいつにも増して閑古鳥がさえずっているようです。いつもはいぶし銀のダンディズムを感じる店構えも、しわがれたお爺さんのように枯れた雰囲気を醸しています。お店の入口に、なにやら紙が貼られていますね。どれどれ・・・。臨時休業、事情によりしばらくお休みします・・・ですって⁉ な、なんということでしょう! 私の掛け替えのない憩いの場が、突如として期間未定の休業に入られてしまうなんて、まさに青天の霹靂! 私はこの先、一体どこで空腹を満たせば良いのでしょうか? それに・・・この食堂の他に、一体どこで先輩とお会いできるというのでしょうか? こんなことなら、先輩のご連絡先だけでもお聞きしておくべきでした。私はなぜこうも要領が悪いのでしょう。なんだか泣きたい気分になってきました・・・
やあ、マドモアゼル。こんな辺鄙な店の前で座り込んで、どうしたんだい?
え? えっと、マドモアゼルとはどなたでしょうか? 私は平坂奈美ですが
貴女のことだとも、マドモアゼル。これは可憐なレディーをお呼びする際のマナーでね。さ、僕の手を取って。こんな所に長居は無用さ。僕がもっと素敵な場所へとエスコートして差し上げよう!
私のような者をお誘い頂いて大変嬉しいのですが、このお手に触れることはできません。何分、私は貴方のことを存じ上げませんので・・・
これはこれは。僕としたことがとんだ失礼を。貴女の美しさを前に、いささか気が早まってしまったようだ。それでは、改めて自己紹介を。僕の名前は・・・あれ? 本当にご存じない? 僕、結構有名だと思うんだけど・・・
あ、そうですか・・・。ごほん! ぼ、僕の名前は外島公彦。東宮大学の三回生さ。世間は僕を眉目秀麗・品行方正・成績優秀の完全無欠な人気者と評しているそうだ。まあ、僕にはどうでも良いことだけどね。僕は人より少し大富豪で、今はこの近くのちょっとした大豪邸で暮らしている。嫌いなものは卑屈な男で、好きなものは可憐な女性。僕の眼前に咲き誇る貴女のような、ね
外島さん、ですね。どうぞよろしくお願い申し上げます。私は・・・
おっと。貴女からの自己紹介は不要だとも、マドモアゼル。貴方のことはよく知っているのでね。そんなことより、晴れて僕ら二人、既知の間柄となったんだ。この出会いを祝う意味でも、僕の屋敷で素敵な午後のティータイムはいかがかな?
うーん。どうしましょう。ティータイムも良いのですが、今はとにかくお腹がペコペコなもので・・・
良い返事だね、マドモアゼル。では、さっそく参りましょう。さ、今度こそ僕の手を取って・・・
午後一時五十三分・・・。勝負の時は刻一刻と近づいている・・・。我が心臓は早鐘を撞きまくり、そのビート・パー・ミニットはメタルバンドのドラムソロを追い抜かんとしているが、これは来るべき決戦に猛り立つ闘志が原因であって、決して不安・緊張・動悸といった漢方医学のお世話になるべき精神不安のせいではない。我らたった二人の兵力なれど、内一人は英雄の道を行く男。大敵の軍勢にも怯まず、ばったばったと切り伏せる華麗な武芸を見せつけ、見事勝利を掴んでやる、という予定である。大丈夫。きっと上手く行く。この戦、上手く行くさってね。はは・・・。午後一時五十五分・・・
ええい、うっとうしい! こんな時くらいお口チャックできんのか、君は!
くそ、何度も頭でシミュレーションしたのに、全然上手く行く自信がない! あんな見るからに怪しい男の口車にレッカーされてここまで来たのが、そもそもの間違いではないのだろうか? 警備の情報だって、どこまで信用できるというのだ? もしやあの男、初めから外島とグルになって我々をハメようとしているのではないのか? ならば、我々がここで取るべき最善の行動は、戦略的撤退の一択ではないだろうか?
そうやって、逃げることを理屈で正当化するから、君はいつも幸福の周回軌道から外れて行くのだ
幸福か・・・。そうだ。平坂さんの幸福こそが、そのまま俺の幸福だ。外島のような男に、それが叶えられるはずはない。俺がやるべきことは、彼女を、彼女の幸福を妨げるモノから守ることだ。その使命を全うせずして、何が英雄であるべきか。・・・よし、覚悟は決まった。ヒロイン無き英雄譚、とくとご覧に入れようではないか!
全く、なんだかんだ言っても、君は本当に平坂さんに惚れているんだね。・・・そろそろ時間だ。午後一時五十九分五十四秒・・・五、六、七、八、九・・・午後二時。さあ、鬼ヶ島に上陸だ
は、はは。マドモアゼル。よっぽどお腹が空いていたんだね
(口に含みながら)ええ、それはもう、お腹と背中がひっくり返るくらい空いておりました
どうだい、僕の屋敷の料理は? 超一流のシェフに作らせたフルコースさ。普段は僕以外の人間は口にできないのだが、貴女は特別だよ、マドモアゼル
(飲み込んで)ごくん。大変おいしゅうございます。いつもの食堂の料理にも劣らぬ味です
いや、あんなオンボロ食堂の料理とはレベルが違うのだが・・・。まあいい。食事も終わったところで、改めて僕の屋敷を案内しよう。本来は客人と言えど、滅多に他の部屋へは立ち入らせないのだが、何度も言うように貴女は特別だからね、マドモアゼル
あの、そのマドモアゼルというのは、やっぱりくすぐったいような気がします。私は、平坂奈美ですから
貴女以上に、この呼び方が似合うお人はおられませんよ、マドモアゼル。もっと自信を持って。だって貴女は、この外島公彦の伴侶に・・・おっと、また急ぎすぎるところだった。とにかく、屋敷をご案内しよう。貴女になら、僕の秘密の執務室を見せて上げたっていいんだ
ふふふ・・・そう、秘密の、ね。きっと貴女も、僕のことを意識せずにはいられなくなるはずさ
まあ、それは後のお楽しみということで、まずはメインホールから・・・(携帯のアラートが鳴る)・・・くそ! 何だ、こんな時に・・・(携帯を取る)・・・僕だ。何用だ? ・・・何? そうか、分かった・・・(携帯を切る)・・・はあ。すまない、マドモアゼル。片付けなくてはならない急用ができてしまった。申し訳ないが、この部屋で少し待っていてくれないかな? なあに、すぐに戻るよ。愚かな鼠を断罪して来るだけだから
分かりました。私のことは、どうかお気になさらずに。鼠さんには、どうか寛大なご処遇を
やはりあんな正体不明の男の言うことなど、信じるべきではなかった!
知るか! 煮られて焼かれてスペアリブってところだろ
それを言うなら、チャーシューだろう。僕らこうして縄で縛られているからねぇ
僕の屋敷に忍び込んだ阿呆どもとは、君たちかい? 全く、呆れて物も言えないよ。やはり度を超えた愚か者とは、煮ても焼いても食えないらしい
痴れ者に僕の名を呼ぶ権利はない。君はただ、これから僕が問うことに答えるのだ。一体なぜ、僕の屋敷に侵入した? その目的を答えろ
ふん。その威勢がいつまで続くかな? 僕の屋敷には、君たちのような慮外者の口を割らせる設備が山とあるんだ。痛い目を見ないうちに吐いた方が身のためだぞ
俺には散々発破をかけておいて、情けない奴だ。おい、外島! 俺たちは他の連中のように、お前に屈服はしないぞ。俺たちは保身を捨て、純粋な正義の下、掛け替えのないこの世の宝をお前の占領から守るのだ!
くだらない世迷言だ。掛け替えのない宝だか何だか知らんが、それを手にできる者が手にすることの、何が悪いというのかね? 君らが欲するものを、僕も欲しいというだけのこと。そして君らと僕の決定的な違いは、それを本当に手に入れられるかどうかさ。僕に言わせれば、手に入らないものに執着し、架空の所有権をでっちあげる君らこそ悪だ。分かったら、二度と僕に無礼な口を聞くなよ、貧乏人が!
貧乏人で結構! こちとらオンボロ食堂で飢えを凌ぐ一般庶民の端くれだ。だがな、そんな庶民にも、叶えたい幸福があるのだ。お前のに比べれば、ささやか過ぎるものかも知らんが、俺らに取っては命がけだ! そんな幸福を、ただ欲しいというだけで、根こそぎ持ち去って行くお前は鬼だ! 鬼のように意地汚い悪だ! だからこそ、この俺が桃太郎に代わって成敗してくれる!
ぷっ、ふはははは! 何だって? 桃太郎? あはははは! 幼稚、稚拙、低級! こんな珍妙な阿呆には、初めてお目にかかったよ。分析しがいのある、馬鹿の検体だ。もう、結構。君らのような田舎者にこれ以上の時間は割けない。僕にはミス・平坂を歓待するという重要な用件があるからね
ん? 君もミス・平坂を知っているのか。彼女はもう来ているよ。この後は僕と一緒に、夢のような一時を過ごすのさ!
おっと。さては君、ミス・平坂にホの字かい? 庶民の幸福にしては、身の程知らずの高望みだ。なんだかんだとほざいても、結局君は恋に狂った色ボケというわけか
違う! 俺はただ、純粋に平坂さんの幸福を願う、ヒロイン無き英雄譚に生きる漢だ!
ヒロイン無き英雄譚? 実に珍妙な妄言だ。そんなものは、檻の中で寂しく独り言ちればよかろう
思い出していただいて、光栄です。先ほど、貴方は隣のコイツを貧乏人とおっしゃいましたが・・・
いやはや、完全無欠と名高い外島様のお屋敷にワタクシの汚らしい足跡をつけたことを、まずはお詫び申し上げます。ワタクシは、貴方様には何一つ不服ございません。この屋敷に参りましたのは、隣の唐変木に脅迫され、泣く泣く従わされたという止むに止まれぬ事情があったのです。隣の朴念仁が何やら貴方様に楯突いておりましたが、言語道断でございます。ワタクシは貴方様の味方です! どうか、ワタクシの哀れな境遇と貴方様への偽らざる尊崇を汲んでいただき、何卒、ワタクシだけでもお目こぼしいただければと存じます!
そうか、そうか。君は僕の肩を持つというのだな? いや、実に感心な態度だよ。うん
君のその態度に免じて・・・二人まとめて牢に放り込んでやろう!
おい、お前たち! この侵入者どもを地下牢に閉じ込めておけ! 僕の用件が終わったら、正式な処断を行う。それまで決して、外に出してはならんぞ!
きゃ! わ、わ、どうしましょう! 絵本が散らばって・・・早く拾わないと・・・
分かります。小さい頃に夢中になって読んで・・・あれは、忘れられない思い出ですよ。これで、全部ですか?
はい。手伝ってくださり、本当にありがとうございました。私ったら、ぼうっとしていて、大切な絵本を・・・。いけませんね、これでは
些細なことです。私は要領が悪いので、よく叱られるのです。今日も学校の先輩を怒らせてしまって、言われたのです。絵本ばかり読んでいるから、トロいんだって・・・。私の巻き添えに大切な絵本まで馬鹿にされてしまって、私、申し訳なくて・・・
貴方は悪くありませんよ。要領の良し悪しで人の価値は決まりません。他人を詰るのに、その人の大切なものまで否定する方がよほど質が悪い。その先輩こそ、絵本を読んで想像力を養った方がいいと、私はそう思います
貴方は、絵本を馬鹿にしないのですね。嬉しいです。貴方にお会いできて、今日という日がとても良い一日になりました
私のような者が、少しでも励ましになったのなら光栄です。では、この後もお気をつけて・・・(平坂のお腹が鳴る)・・・ん? 今の音・・・
わ! すみません! ホッとしたらお腹が空いてしまって・・・お恥ずかしい・・・
ははは。もうお昼過ぎてますからね。・・・よろしければ、私のいきつけの食堂をご紹介しましょうか? 見た目はボロですが、料理はかなりのものでして・・・
は、はい! ぜひご一緒させていただきます! 実は、もう少し貴方とお話したいと思っていたのです。私、平坂奈美と申します。東宮大学の、二期生です
なんと! 私の先輩ではありませんか! これも、何かのご縁ですね。末永く、よろしくお願いいたします
まだ怒っているのかい? あれは、僕なりの機転だよ。二人とも捕まるより、どっちか逃げ延びた方が延命の可能性があると思って、一芝居打ったのさ。本気に取られちゃ、困るよ、君
こうなったら、何とか脱出する手を考えるしかないねぇ。君は何か浮かんだかい? さっきからずっと考え込んでいたけど
え? いや、俺はただ、平坂さんとの馴れ初めを思い出していただけで・・・
こら! そんなことでどうするんだ? 僕らは大大大ピンチに陥っているんだ。僕らが今考えるべきは、一に脱出、二に弁明、それと一応、時世の句だ
平坂さん・どうか奴から・逃げてくれ。ってこら! 時世の句から考えるんじゃない!
馬鹿! そんなつもりで言ったんじゃない! お前こそ、そんな風にふざけてないで、何かいい手を考えろ!
やれやれ。君たちの騒がしさには頭が上がらぬ。囚われとなっても尚、漫才に興じる余裕があるとは
私の声を忘れたかね? 存外に薄情な御仁だな。だが、記憶容量に乏しい君でも、私の顔までは忘れまい。どうかね?
用事を済ませて来てみれば、なんとも愉快な有様ではないか。君ら、中々に鉄格子が似合っているよ
誰のせいですか、誰の! 貴方、私たちを騙しましたね!
なんだ、そのことか。君は末節にこだわり過ぎる。私は君らを騙してなんかいないとも。確かに警備の情報は出鱈目だったが、それは大局的視点から目的達成に必要と判断したためだ。君らがこうして捕まること。それが今回の作戦の肝だったのさ
呆けちゃいかんよ、君。目的とは、言わずもがな我々の勝利ではないか。(牢のカギを開けて)さあ、出たまえ
私たちを助けてくれるんですね・・・貴方は一体、何者なんです?
同じ質問を呈する勿れ。私は名乗るほどの者ではない。ただ、猿真似には自信があって、警備員に成りすますくらいは造作もない。私の数少ない取柄の一つだ。他の取柄は料理の腕くらいだがね。君らが捕まり、私が助ける。これが、最も安全に執務室に辿り着く一手という訳さ
私は君の家来だ。礼など要らないよ。それより、急ぎたまえ。平坂女史が屋敷に来ている。外島が妙な気を起こす前に、彼女を助けてあげなさい
わあ、すごい! まるで竜宮城のように豪華絢爛ですね!
部屋の装飾は僕自身のプロデュースでね。そう褒めてもらえると嬉しいよ。でも、それ以上に貴女を虜にするものがここにはあるのさ、マドモアゼル
ふふふ。それはね・・・このファイルだよ、マドモアゼル
そのファイルが、ですか・・・? すみません、私にはイマイチぴんと来ません
ここには、僕のためなら何でもする、という連中の情報が所狭しと記されているのさ。何でもだよ、何でも。廻れと言えば廻り、吠えろと言えば吠え、鼻からアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノを食べろと言えば食べる。おっと、これは少し下品だったかな。とにかく、何でもさ。そうやって僕に従う連中が、あらゆる業界にいるんだ。この意味が、分かるかい? つまり、僕に叶えられない望みは無いということさ!
そうとも! 凄いことさ! ほら、ご覧。こんなにたくさんの人間が、僕の手下なんだ。君が知っている名前だって、あるんじゃないかな?
あっ、このお方は日本文学講義の先生! こちらは童話・絵本コンテストの審査員長! さらにさらに、東宮出版の社長まで!
ふふふ・・・そいつらだって、僕の意のままさ。僕にかかれば、貴女の夢を今すぐ叶えることも簡単ということだよ、マドモアゼル。絵本作家という貴方の夢をね。僕の凄さ、分かってくれたかい?
はっはっは! 感動して言葉が出ないようだね、マドモアゼル。それほど喜んでくれるとは、僕もベリーハッピ―だよ。貴女のような可憐な女性を幸せにするのは、僕のノブレス・オブリージュだからね
おおっと! そういえば昨日、このファイルに新しい人物を書き加えたのだった。ふふふふ・・・マドモアゼル、最後のページをご覧なさい
最後のページ・・・。あれ? あれあれ? これは・・・平坂、奈美・・・私のことではないですか⁉
平坂奈美、十九歳。東宮大学文学部在籍。趣味、読書。将来の夢、絵本作家。特記事項・・・外島公彦の、将来の伴侶である・・・って、えええええー⁉
えええええー⁉ 伴侶、ええ⁉ そ、ええ⁉ わた、えええええー⁉
いや、驚かせてしまってすまない、マドモアゼル・・・ホント、ごめんなさい。ごほん! だ、だがね、そこに書いてあることは、もうすぐ現実になる。そして、やがては誰も驚かない周知の事実として、皆が受け入れるのさ。もちろん貴女も、ね。さあ、マドモアゼル! ぜひこれを受け取って欲しい!
貴女のために特別に作らせた、八十六カラットダイヤのエンゲージメントリングです! 僕と、婚約しよう、マドモアゼル!
えっと・・・すみません、お気持ちは大変嬉しいのですが、お断りいたします
なああんでですか、マドモアゼル! 僕の渾身の演出を見ていたでしょう⁉ 出会い、歓談、秘密の共有、ダイヤの指輪、そして完全無欠の僕・・・パーフェクトじゃないか! 百人中百一人が迷わずイエスと答えるこの流れで、どおおして貴女はノーと答えるんだマドモアゼルー!
え? えーっと・・・すみません。その演出というのが、イマイチぴんと来てなくて・・・。私、要領が悪いのです。貴方の演出というのは、きっと間違いなく素敵なのでしょう。ただ、私がそれに気がつかないだけなのです。それに・・・私、他に気になる御方がおりまして・・・その気持ちに背を向けることは、できないのです
有りえナッシング! 貴女が気に留める男は、この外島公彦を置いて他にない! あってはならない! 僕は、貴女の夢を叶えられる男だ! それをもう一度よく考えるんだ、マドモアゼル!
それが、一番ピンとこないことなんです。どうして、私の夢を貴方が叶えるのでしょう? 自分の夢は、自分の力で叶えなければ意味がありません。私はまだまだ未熟者ではありますが、日々精進、夢に向かう気持ちだけは誰にも後れをとらないつもりでいます。私が望むのは・・・その長い長い道のりを一緒に歩いて、一緒に楽しむ人がいてくれる。そんな、ささやかな幸せなのです。そして、その人は・・・
イナフ・トーク・・・了解した、マドモアゼル。どうやら、貴女の心に巣くう邪魔者を除かなければ、僕が入れるスペースは三畳一間もないらしい。・・・言いなさい、マドモアゼル。その男の名を。貴女の心が完全に毒される前に、僕がそいつを消して差し上げよう
正体を現したな、外島公彦! やはりお前は平坂さんを幸せにできる男ではなかった! 欲望と手段がデカいだけの、恥知らずな鬼そのものだ! 我が正義の下、お前を成敗する! 覚悟しろ!
なぜ君がここに・・・? 地下牢に閉じ込めたはずでは・・・?
なぜその必要がある? 彼女は僕の婚約者だよ? たった今、そう決まったんだ
う、嘘です! 先輩、私はこの方の婚約者などではありません!
分かっているとも! この男は自分の下心のためなら平気で他人を服従させる暴君だ。そんな奴に、貴女の心が奪えるものか! 平坂さん、私がすぐに助けるから、待っていてくれ!
ふん! 散々な言いようじゃないか。ヒロインを助けるヒーローのつもりか、君? 馬鹿らしい。君だって、所詮は自らの欲望で行動する不埒者だろう? 煩い理屈で誤魔化したって、本心は透けてるぞ。さっき君は、桃太郎に習うとか言っていたな? そうとも、君はただ、勝手な独善を引き下げて僕の領土を踏み荒らしに来た、桃太郎のような偽善者だ。 そっちこそ、鬼の所業と言うものだ!
違います! 桃太郎はそんな御方ではありません! そして、先輩も・・・
もう、変な見栄を張るのは、やめだ。俺は、自分に嘘をついていたんだ。だって・・・諦められる訳がないだろう。こんなに、好きなのに。命を懸けたって、少しも惜しくないほど想っているのに。ヒロイン無き英雄譚? ふん、我ながら珍妙な言い訳だな。ヒロインなら、いるじゃないか。俺が全身全霊を賭して守り、幸せにするべき人が、目の前に。平坂さん・・・
私は、ぱっとしない男です。外島に比べて、全然見栄えのしない人間です。英雄だなんて、口が裂けても名乗れない庶民です。それでも、今は・・・今は、敢えて名乗らせてください。私は、英雄だと! 貴女を助けるヒーローだと! 信念や理屈ではない、私の、純粋に貴女を想う気持ちによって、私はこの男を成敗します! 貴女は、私のヒロインです、平坂奈美さん!
外島! 詰まらない児戯に付き合わせたな。だが、これからは男同士の意地の戦いだ! 本当に平坂さんを想う気持ちがあるなら・・・本気で来い! 俺も全力で相手になるぞ!
本気で来いだと? 君、僕と殴り合いの喧嘩でもするつもりか? 甘く見るなよ。毎日ジムで鍛えている僕が、君みたいな脆弱な男に負けるはずがないだろう!
よしたまえ。これは意地の戦いだ。我々が余計な茶々を入れることは許されん
それなら、良かった。僕としても痛いのはご免だからねぇ
僕は完全無欠! お金持ち! 人気者! 欲しいものは、何でも手に入る! 平坂さんだって、そうさ! お前さえ消えれば、彼女は僕の物になる! これまでの人生で、そうならなかったことはない!
(しがみつかれて)な、何をする? 男と抱き合う趣味など無いぞ!
俺にだって無い! 用があるのは、お前が腰に差している・・・コイツだけさ!
ま、待て! 君たち、そんなことをして無事で済むと思うなよ。この屋敷にはそこら中に監視カメラがある。君らの姿はバッチリ撮られてるさ。住居侵入に窃盗。君らは犯罪者だ。すぐにでも警察が捕まえに行く。この辺りには、僕の命令に従う警官だって少なくないのだよ!
残念ながら、録画のデータは残らないよ。監視システムに細工をしたからね
はて? 君らには用事を済ませてから行くと伝えたはずだが
同じ質問を・・・おっと、君は初めてか。私は名乗るほどの者ではないよ。ただ、立つ鳥跡を濁さず。証拠を消すのにはいささかの心得がある。私の数少ない取柄の一つだ。他の取柄は料理の腕くらいだが、その取柄を気に入ってくれる物好きも世の中にはいるものでね
そう気を落としなさんな。録画のデータがなくとも、君の人脈を使えば私たちを捕らえることは造作もなかろう。もっとも、ファイルを奪われ、他人の弱みを握れなくなった君に従う人脈が残されていればの話だが
よし、外島がへこんでいる間にここを出よう! 平坂さんも、ほら・・・
マドモアゼルでもハニーでもありません。私は、平坂奈美です!
そう言うな。ここまで上手く行くとは考えてなかったのだ
迷うことは無い。このままメインホールを突っ切れば良い
心配無用だ。外島は今、金棒を取られたひとりぽっちの鬼だ。それがどれだけ哀れな存在か、すぐに分かるだろう。そら、もうメインホールに出るぞ
(館内放送)屋敷の全使用人に告ぐ。侵入者が逃走を図った! 奴らはメインホールにいる! 同行している女性以外、生死は問わない! 絶対に逃がすな!
そうだ・・・見たまえ、彼らの態度を。君の持つファイルを見て、我々を捕らえようという覇気が消えた。安堵の表情を浮かべてすらいる。彼らもまた、弱みを握られて無理矢理従わされていた者たちなのだ。君がそのファイルを奪取した今、彼らが外島に従う理由はない。これなら、モデルがランウェイを歩く速度でも捕まることはない
(館内放送)お前たち、何をしている! そいつらを捕まえろ! 僕の命令が聞けないのか? よし、それなら、そいつらを捕らえた奴には賞金を出す! 百万・・・いや、五百万出そう! どうだ? ・・・くそ、一千万! 一千万ならどうだ⁉
(館内放送)くそ・・・! どいつもこいつも、役に立たない俗物が! いつもそうだ。そっちから近づいてくるときは、勝手に媚びへつらって、平身低頭、くどいほど忠節を謳うのに、お望み通り従えてやれば、今度は一転被害者ぶって、面従腹背、忠義も果たさず離れて行く。この世の中は間違っている! お前らみたいな軽佻浮薄な連中ばかりが俗世に蔓延って、僕は・・・僕はまた一人なのかい? 眉目秀麗・品行方正・成績優秀な、この僕が!
・・・そうか。あいつも、俺と同じだったのか。俺より何倍も出来ることが多くて、何倍も欲しいものがある。違うのは、そこだけだ。俺は桃太郎じゃないし、あいつは鬼じゃない。ただの人間。そして、お互い一生懸命だっただけなんだ
そうさ。そして、今回は君の意地が勝った。誇りなさい。胸を張って外へ出るんだ。それが、勝者の務めというものだ
本当に良かったです。ここの食堂がすぐ営業を再開してくれて
昨日私が来たときは、しばらくお休みって書いてありました。でも、こうしてまた絶品料理が食せるのです。細かいことは気にしないことにします
平坂さんは外島の屋敷で食事をしたのでしょう? 今更ここの料理を食べたところで、物足りなくはないかい?
そんなことありません! ここの料理は絶品です。どこの料理にだって、負けておりません
それより先輩。昨日は本当にありがとうございました。何やら、私のことで甚大なご迷惑をおかけしてしまったようで・・・
あ、ああ、気にすることはないよ。平坂さんがあの場にいたのは、本当に偶然だったのだから
それでも、先輩は私のために戦ってくれました。その事実は変わりません。ありがとうございます
それから、私は先輩に謝らないといけないことがあります
先日、絵本を読んでいただくお約束をしましたのに、私が一方的にそれを反故にしてしまいました。その節は、本当にすみませんでした!
いいえ、違います! あの時、私は自分に嘘をついていました。あの絵本は、私が本当に描きたかった絵本じゃなかったのです。本当に描きたいものを描いたら、私の気持ちが透けてしまうと思ったら、怖くなって、ついそれを隠してしまったのです。私は、そんな私の未熟さが許せなかったのです
そうか。あの時の厳しい眼は、私に向けられたものではなかったのか
あれから私は、もう一度自分と向き合って、今度こそちゃんと描きたかった絵本を完成させました。それが、こちらです。 ・・・読んでくれますか、先輩?
も、もちろんだとも。 ・・・おや? 主人公の、このキャラクターは・・・
それは、とても光栄だよ。でも、私なんかで良かったのかい? 実際の私は、この絵本のキャラクターより、ずっと頼りない人間だから
そんなことありません! 先輩は、まさにこの通りのお人です。雄弁で、凛々しく、正義感に溢れ、たまに繊細過ぎるところもありますが、誰よりも、優しい。それが、先輩です。先輩は、私のヒーローなのです
えっと、すみません。突然、お恥ずかしいことを・・・
平坂さん、私と、その・・・お付き合いしてくれますか?
違うんだ・・・こんな、こんな幸せが叶うなんて思わなくて・・・うう
先輩は、時々繊細過ぎます。もっと、自信を持ってください。先輩は、こんなに素敵なお人なんですから!
何やら目出度いお話をしていましたので、私からのサービスでございます
人違いでしょう。私にそんな立派なことはできません。取柄と言えば、料理の腕だけですから。私の料理を気に入ってくれる君たちのような物好きのために、毎日この食堂で腕を振るうことだけが私の生きがいなのです。それでは、どうぞごゆっくり
せっかくのご厚意です。早速いただきましょう。あむ・・・うーん、おいしい!
全く。この食堂、見た目はボロだが、料理は本当に美味いな
平坂さん、その、先輩というのはちょっと・・・ほら、私たち、恋人同士、だから・・・
そ、そうですね。私ったら無粋な真似を・・・では、福内さん? いえ、行雄さんの方がいいでしょうか? うーん・・・
な、なんかどっちも気恥ずかしいな。やっぱり、しばらくは先輩でいいか
私の方も、これまで通りお呼びください。マドモアゼルとかハニーは駄目ですよ? だって、私は平坂奈美ですから!