第1回「しなコン!」ショート部門受賞作品
「ひび割れた指にささくれがたつー」
作家・落合は自宅で書き物に耽っていた。そこへ編集の秋庭が退職の挨拶に訪れ、書きかけの文章を覗こうとして咎められる。二人は手土産を食べながら話す。秋庭は退職理由を、実家の仕事を手伝う為だと言う。
素直じゃない落合は、好物にも退職にもそっけない反応をするが、ファンでもある秋庭は言葉の意味を理解してると楽しげに笑う。食事を終えた頃、秋庭が落合の指にささくれを見つけ……
シナリオ
ただそこにあるだけなら、目障りで済むというのに。それは何をするにも引っ掛かり、私の心を苛立たす。
そう思うと踏ん切りつかず、私は今日も、指先の厄介を恨んでいる。
こんなに心乱されていることを、きっと君は知らないだろう。
「そんな事言ってると、また食事を忘れるんですから!体調不良の作家なんてもう流行らないですよ?いっぱい食べて、しっかり寝て、たくさんいい話をかかないと」
「失礼な。ちゃんと差し入れですよ。先生の好物でしょう?」
「言いましたよ、3年前に。新刊の受賞パーティーの帰り、先生がまだ飲み足りないって言って入った寿司屋で。まあ先生、あの時べろべろに酔ってましたけど」
「酒で鈍った舌に、酢飯の酸味が丁度良かっただけだろう」
ようやくちぎりとった思いが、またにょきりと頭をもたげるのに辟易(へきえき)としていた。何度も繰り返すささくれと同じ、むけばむくほど深くなる。
いっそ指ごと切り落とせば、楽になるだろうか。落ちた薬指を見たらこの心は落ち着くだろうか。そしてその時、私はこう言うのだ。
「今月分の原稿はもう頂きましたし、何か新しい話を思いついたとか?」
「ああ。何度も家に来る集金や、頻繁に顔を出す厄介な編集者とかのね」
「集金は回ってきて当然ですけど、まめに顔を見せるなんて、その編集の方はとても先生の事が好きなんですね。大事にされてますね先生、自慢に思った方がいいですよ?」
「先生、今まで本当にありがとうございました。先生の作品づくりに携わらせて頂いたことは、私の人生の宝です」
「うち、農家なんです。今はまだ二人とも元気なんですけどね。結構前から早く帰ってこいって言われてて、何とか誤魔化してたんですけど、まぁいつまでもそうは言ってられないし、この辺が引き際かなと」
「全然帰る実感わかないんですよ。ずっとこっちに住んでたから引越しなんて久しぶりだし」
「君は私でも呆れるほどの読書マニアだ。準備といいながら、片すはずの本に齧り付いてるんじゃないのか?」
「そうなんですよ!何度読んでも先生の本が面白いせいで、つい夢中になってしまって」
「私がいなくても、ちゃんと食べなきゃダメですよ?休憩も。後任の子にはまめに様子を見る様に言っておきますが、」
「心配しなくても大丈夫だ。それより、自分の心配をしなさい。急に畑仕事なんて出来るのか?」
これで服に袖を通す時も、横になって布団を手繰り寄せる時も、煩わしい思いをせずに済む。
きっと私はいつか、あんなに小さな君がそこにいた事も、君がどんなに不愉快だったかも、忘れてしまうのだ。
「放っておくと気になるから、切っちゃった方がいいですよ」
「ええ、でも裂けちゃうかもしれないし、痛いですよ?ちゃんと爪切りで切った方が」
「ああ、やっぱりちょっと血が出ちゃいましたね。ごめんなさい、消毒しないと」
「ダメです、 小さい傷って意外と怖いんですよ?何度も繰り返したり、ばい菌が入って膿む事もあるんですから」
「向こうについたら、手紙を送りますね。写真を添えて。電車もろくに通ってない田舎だけど、大きな銀杏(いちょう)の木があって、とても綺麗なんですよ。見たら、先生も来たくなっちゃうかも」
「…ああ。せいぜい、いっぱい食べて、しっかり寝て、たくさんいい話をかくよ」
「…悪口だと言ったろ。人に見せるようなものじゃない」
「良いじゃないですか。誰にも言わないし、私宛の悪口でも構いません。餞別だと思って」
私は傷が治りかける度、何度も抉ってそれを深くする。
いつから私は、鬱陶しいと思っていた筈の物に縋っていたのか。傷を毟るのが怖くなったとき?ささくれに気づいた時?…あるいは、その前からか。
きっと君は、清々しただろう。これで偏屈な私から解放されて、どこへでも行ける。私の事など忘れて。
……もしも、もしまた、ささくれと会えたら、私はそれを疎ましく思うだろうか。あるいは次こそ、大事に出来るだろうか。
今はただ、指先から溢れた血が、布団に落ちていくのを眺めている。
「引越しギリギリにポストに入れるなんて、意地悪だな。でも先生の『気が向いたら』は、読ませてやるって意味ですもんね。これが悪口?…ああ、悔しいな。先生の言葉は、誰よりも理解してる気でいたのに…。敵わないなぁ、本当に。…ああ、そうだ。向こうについたら直ぐ送れるように、先生に手紙をかいておこう」
(M)まるで体の一部のように、貴方の近くにいて、どれだけ貴方を思っていても、少しも私を見ようとしない。
出来ることならそのままずっと、貴方の視界の中にいたい。だけどそれが叶わないなら…。
せめて最後に、その指先に噛み付くように、貴方の一部も千切れて欲しい。
「…あなたはささくれの気持ちなんて考えないのだろうけど、私にできる仕返しは、こんな些細な物なのです。…先生」